
なぜプリントアウトは信頼できないのか
デジタル化が進んだ現在でも、重要な記録を「紙に出力して保管する」運用は根強く残っている。しかし、紙のプリントアウトは本当に信頼できる証拠として機能するのだろうか。本稿の答えは明確である。プリントアウトは、電子記録という一つの生き物から切り取った「断面図」にすぎない。規制の世界では、この断面図のことを static record(静的記録)と呼び、元の生き物のことを dynamic record(動的記録)と呼ぶ。MHRA・FDA・PIC/S のいずれもこの区別を明文で定義しており、動的記録から作られた静的記録は、原則として原本(original record)にも生データ(raw data)にもならないとしている。本稿では、紙に出力した瞬間に何が失われるのかを、一次情報の条文に即して具体的に示す。
本稿の主張
- 印刷物は元データの一部でしかない。紙に写るのは「そのとき画面に表示されていた見え方」だけであり、その見え方を成立させている処理パラメータ・監査証跡・メタデータは紙に転写されない。
- したがって、印刷物からは「別の見え方があり得たか」を検証できない。クロマトグラムを再積分できないのが典型である。
- 紙に出力する行為そのものが悪いのではない。紙を原本として扱い、電子記録を捨てる(あるいは見なくなる)運用が問題なのである。
なお本稿は、ハイブリッド運用をめぐる4本の記事の一つである。役割は次のとおり分けている。
| 記事 | 扱う論点 |
|---|---|
| ハイブリッドシステムとは | 定義・発生の背景・問題点の総論 |
| 紙が正か電子が正か | どちらが原本か。正本性と証拠能力 |
| 本稿(なぜプリントアウトは信頼できないのか) | 紙に出力した瞬間に何が失われるのか。動的記録から静的記録への転落、メタデータ、監査証跡、再現性 |
| タイプライターエクスキューズとは | ハイブリッド運用が生まれた歴史的経緯 |
規制はプリントアウトをどう位置づけているか――static record と dynamic record
「紙は信頼できない」という主張は、感覚論として語られることが多い。しかし、この主張には規制上の明確な裏づけがある。それが static record(静的記録)と dynamic record(動的記録)の区別である。この2語は、データインテグリティに関する主要3ガイダンス(MHRA・FDA・PIC/S)のすべてに定義が置かれている。
MHRA「GXP Data Integrity Guidance and Definitions」6.11.1
英国 MHRA が2018年3月に発出した「‘GXP’ Data Integrity Guidance and Definitions」(Revision 1: March 2018)は、6.11.1 Original record の項でこの区別を定義している。原文は次のとおりである。
A static record format, such as a paper or electronic record, is one that is fixed and allows little or no interaction between the user and the record content. For example, once printed or converted to static electronic format chromatography records lose the capability of being reprocessed or enabling more detailed viewing of baselines.
Records in dynamic format, such as electronic records, allow an interactive relationship between the user and the record content. For example, electronic records in database formats allow the user to track, trend and query data; chromatography records maintained as electronic records allow the user or reviewer (with appropriate access permissions) to reprocess the data and expand the baseline to view the integration more clearly.
MHRA ‘GXP’ Data Integrity Guidance and Definitions, Revision 1: March 2018, 6.11.1 Original record
訳せば、静的記録とは「固定されていて、利用者と記録内容との相互作用をほとんど、あるいはまったく許さない形式」である。そしてその例として真っ先に挙げられているのが、印刷された(あるいは静的な電子形式に変換された)クロマトグラムであり、失われる能力として名指しされているのが「再処理(reprocess)」と「ベースラインをより詳細に見る」ことである。
この項番号は重要である。static / dynamic の定義は 6.11「Original record and true copy」の下位項である 6.11.1「Original record」に置かれている。つまり MHRA は、この区別を「原本とは何か」という問いの一部として提示している。紙か電子かという媒体の話ではなく、何をもって原本とみなすかという話なのである。
FDA「Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers」
米国 FDA も、2018年12月に最終版として発出した「Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers」(Guidance for Industry, December 2018)の質問1(d)で、同じ区別を定義している。
For the purposes of this guidance, static is used to indicate a fixed-data record such as a paper record or an electronic image, and dynamic means that the record format allows interaction between the user and the record content. For example, a dynamic chromatographic record may allow the user to change the baseline and reprocess chromatographic data so that the resulting peaks may appear smaller or larger. It also may allow the user to modify formulas or entries in a spreadsheet used to compute test results or other information such as calculated yield.
FDA, Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers (December 2018), 1.d
FDA の定義で注目すべきは、動的記録の例としてクロマトグラムと並んで「試験結果を計算するスプレッドシート」を挙げている点である。Excel の数式やセルの値を変えれば結果が変わる。その可変性こそが動的記録の本質であり、印刷はその可変性を隠す。Excel を規制対象記録に使う場合の具体的な管理策は「Excelを使用する場合の管理留意点」で詳述しているので、そちらを参照されたい。
PIC/S PI 041-1 の用語集と 7.7.2
PIC/S が2021年7月1日に発効させた「PI 041-1 Good Practices for Data Management and Integrity in Regulated GMP/GDP Environments」も、用語集(Glossary)で Static Record と Dynamic Record を定義している。定義文には脚注が付され、その出典が MHRA の2018年版指針であることが明記されている。つまり3ガイダンスの定義は独立に生まれたものではなく、同一の系譜に属する。
PI 041-1 が実務上さらに踏み込んでいるのは 7.7.2 である。同項は、電子的に生成された生データを紙または PDF で保持することは「静的記録が元データのインテグリティを維持すると正当化できる場合には conceivable(あり得る)」としつつ、そのために必要な条件を列挙している。すなわち、生データ・メタデータ・関連する監査証跡・結果ファイル・各分析実行に固有のソフトウェア/システム設定・(方法と監査証跡を含む)すべてのデータ処理実行を記録すること、そして印刷された記録が正確な写しであることを検証する文書化された手段を備えることである。そのうえで同項は、この方法は運用管理上 onerous(過重)になりやすいと結んでいる。
MHRA の 6.11.2 にもほぼ同文の記述があり、こちらは「demanding in its administration(管理上、負担が大きい)」と表現している。両者に共通するのは、「紙に落として保管する」ことを禁止してはいないが、それを成立させるための条件が現実にはほとんど満たせない水準に置かれているという構造である。
三者の定義を並べて見る
| 観点 | static record(静的記録) | dynamic record(動的記録) |
|---|---|---|
| MHRA 6.11.1 | 固定されており、利用者と記録内容の相互作用をほとんど/まったく許さない形式。紙記録、静的な電子形式 | 利用者と記録内容の対話的な関係を許す形式。データベース形式、電子的に保持されたクロマトグラム |
| FDA Q&A 1.d | 紙記録や電子イメージのような fixed-data record | 記録形式が利用者と記録内容との相互作用を許すもの |
| PIC/S PI 041-1 用語集 | 固定されており、利用者と記録内容の相互作用をほとんど/まったく許さない記録形式(紙・電子の別を問わない) | 電子記録のように、利用者と記録内容の対話的な関係を許す記録 |
| 典型例 | 印刷したクロマトグラム、スキャンした PDF、画面のスクリーンショット、印刷した集計表 | CDS 上のクロマトグラフィックデータ、LIMS のレコード、Excel ブック、データベース |
| できること | 見る。読む。目視で照合する | 再積分する。ベースラインを引き直す。並べ替える。トレンドを取る。数式をたどる。監査証跡を開く |
| 規制上の位置づけ | 元が動的であれば、原則として原本にも生データにもならない | インテグリティや後日の検証に不可欠であれば、動的形式のまま保持しなければならない |
クロマトグラムという、最も分かりやすい例
なぜ3つの規制文書がそろってクロマトグラムを例に挙げるのか。理由は、クロマトグラムが「同じ生データから、異なる数値を導き出せる」ことが目に見える形で分かる記録だからである。
クロマトグラフィーの検出器が生成するのは、時間軸に沿った信号強度の連続データである。ここから「ピーク面積」という数値を得るには、どこからどこまでを1つのピークとみなすか、ベースラインをどこに引くか、といった積分パラメータを人間または方法ファイルが決める必要がある。同じ生データでも、積分の仕方を変えれば面積は変わる。面積が変われば含量値が変わる。含量値が変われば合否が変わる。
クロマトグラムを紙に印刷すると、「ある積分パラメータで積分した結果の絵」だけが残る。そこには次の情報が写らない。
- その積分パラメータが何だったか(自動積分か手動積分か、ベースラインの起点・終点をどこに置いたか)
- 何回目の積分結果か。前に別のパラメータで積分した結果があったか
- その注入が何回目の注入か。同一検体を何度注入したか、廃棄した注入があるか
- 誰がいつ、どの権限で操作したか
PIC/S PI 041-1 は、手動積分(manual integration)と再処理(reprocessing)について、承認され管理された方法で実施すること、そして変更前の元のデータを元の文脈のまま保持することを求めている。この要求は、動的記録が動的なまま残っていて初めて意味を持つ。紙しかなければ、「変更前の元のデータ」を突き合わせる相手が存在しない。
FDA の Q&A 10 は、この論理を FT-IR を例に述べている。
FDA, Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers (December 2018), Q10
最後の一文が本質を突いている。印刷範囲を絞れば、不純物のピークは紙から消える。そして紙だけを見ている者には、消えたことすら分からない。これが「印刷物は元データの一部でしかない」ということの、最も具体的な意味である。
プリントアウトの根本的な問題点
失われる「見えない情報」――メタデータ
デジタルファイルには、文書の内容以外にも多くの重要な情報が含まれている。これらはメタデータと呼ばれ、少なくとも次のような情報が記録されている。
- 作成日時と更新日時:記録がいつ作られ、いつ変更されたか
- 作成者と編集者:誰がその記録を作成し、誰が編集したか
- 変更履歴:どのような修正が加えられたか
- バージョン情報:何回目の修正版なのか
- 処理条件:どの方法ファイル、どのシステム設定、どの計算式で導かれた値か
- 単位・書式・文脈:その数値が何を意味するのか
FDA はメタデータを次のように説明している。
FDA, Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers (December 2018), 1.b
PIC/S PI 041-1 の用語集も、メタデータは元の記録の不可欠な一部を構成し、メタデータが与える文脈がなければデータは意味を持たない、と述べている。すなわちメタデータは「あると望ましい付随情報」ではなく、記録の構成要素そのものである。メタデータの内容と管理については「メタデータとは何か」で整理している。
紙に印刷された瞬間、これらの情報の大半は失われる。印刷物には、表面に見える文字や画像しか残らない。つまり、その記録がいつ、誰によって作成されたのか、途中で改変されていないかを検証する手段がなくなってしまうのである。
監査証跡の欠如
電子的な文書管理システムでは、監査証跡という仕組みが標準的に実装されている。これは、記録に対して行われたすべての操作を、正確なタイムスタンプとともに記録する機能である。ER/ES指針は監査証跡を「正確なタイム・スタンプ(コンピュータが自動的に刻印する日時)が付けられた一連の操作記録」と定義している。
例えば、ある記録の電子ファイルには次のような履歴が残る。
- 担当者Aが初版を作成(作成日時が自動記録される)
- 点検者Bが第3項を修正(変更前の値・変更後の値・理由・実施者・日時が記録される)
- 承認者Cが承認(電子署名の3つの明示事項とともに記録される)
- 最終版として保存(以後の変更はすべて新たな証跡として積み上がる)
この監査証跡により、記録の「生い立ち」が追跡可能となる。21 CFR §11.10(e) は、監査証跡を「安全で、コンピュータが生成し、タイムスタンプが付されたもの」とし、記録の変更は以前に記録された情報を覆い隠してはならない(Record changes shall not obscure previously recorded information)と定めている。さらに、監査証跡の文書は対象となる電子記録と少なくとも同じ期間保持し、当局の照査と複製に供せることを求めている。
しかし紙に印刷してしまえば、この記録は紙面に現れない。印刷される最終値は「証跡の一番上の1行」でしかなく、その下に積み上がっている履歴は転写されない。監査証跡が当局調査で実際にどう見られているかは「ER/ES指針査察のいま」で解説している。
【一覧】印刷した瞬間に何が失われるのか
本稿の中心となる整理である。左から「電子記録にあるもの」「紙に残るもの」「失われた結果どうなるか」を並べた。
| 要素 | 電子記録にあるもの | 紙に残るもの | 失われる結果どうなるか |
|---|---|---|---|
| 監査証跡 | 作成・変更・削除の全操作、実施者、日時、変更前の値、理由 | 最終値のみ。証跡そのものは印刷されない(別途印刷しない限り) | 「いつ・誰が・何を・なぜ変えたか」を再構成できない。§11.10(e) の要求を紙側で満たせない |
| メタデータ | 単位、処理条件、方法ファイル、システム設定、参照関係 | 表示された数値・文字だけ | 数値の意味と文脈が失われる。同じ「23」が mg なのか % なのか紙面外の知識に依存する |
| 再計算・再積分の可否 | ベースラインの引き直し、手動積分、数式の再評価が可能 | そのとき採用された1通りの結果の絵 | 「別の見え方があり得たか」を検証できない。これが static record の本質的な欠損である |
| 原本性(生データ) | first-capture のデータそのもの | 生データから派生した表示物 | MHRA 6.2 は、動的に取得され電子的に生成されたデータについて「紙のコピーは raw data とみなせない」と明記している |
| 検索性・トレンド | 横断検索、抽出、傾向分析、逸脱の一括抽出 | 1枚ずつの目視 | 年単位のトレンドや相関を後から取り出せない。逸脱調査のコストが跳ね上がる |
| 改訂履歴・バージョン | 版数、差分、旧版の保持 | その1版だけ | 手元の紙が最新版かどうかを紙自身から判定できない |
| アクセス権限・操作記録 | 誰が閲覧・編集・承認できるかの設定と、その行使記録 | 署名欄の筆跡のみ | 権限のない者が触っていないことを示せない(§11.10(d)(g)) |
| 電子署名の検証可能性 | 署名者・日時・意味の3点の明示と、記録との結合の検証 | 署名の像 | 署名が記録本体と結合していることを技術的に確認できない |
| 除外・未報告データの存在 | 廃棄した注入、除外した測定、再試験の履歴 | 採用された結果のみ | 「都合の悪いデータが存在したこと」自体が見えなくなる。後述の実例が示すのはこの点である |
| 時刻の信頼性 | システムが自動刻印するタイムスタンプ | 人が書いた日付、または印刷時刻 | 事後に作られた記録かどうかを判別できない |
実例で確かめる――Able Laboratories 社の事案
ここまでの議論は抽象的に聞こえるかもしれない。しかし「印刷物は元データの一部でしかない」という命題は、実在の事案によって実証されている。
米国のジェネリック医薬品製造業者であった Able Laboratories 社は、2005年の FDA 査察を契機に、全製品の回収と製造停止に至り、同年7月に連邦破産法第11章の適用を申請した。同社で行われていたのは、規格に適合しない試験結果が出た場合に、逸脱の調査を行わないまま試験を繰り返し、あるいはデータを再処理し、適合する結果が出るまで続けるという運用であった。いわゆる testing into compliance である。
本稿の観点から重要なのは、この事案で品質部門が何を見ていて、何を見ていなかったかである。品質部門はバッチ出荷の判断にあたって電子データを照査せず、クロマトグラフィーデータシステムのコンピュータ監査証跡も照査していなかった。照査の対象は、回付されてきた紙の記録であった。そして紙の記録には、適合した結果だけが載っていた。
この事案が示していること
- 監査証跡は存在していた。技術的な仕組みは導入されていた。にもかかわらず、運用として照査されていなかった。
- 紙の記録それ自体には、形式上の不備はなかった。紙は「合格した結果の、正確な写し」だった。
- 問題は、その紙が元データの一部でしかなかったことである。紙に写らなかった部分――廃棄された注入、再処理の履歴、変更前の積分結果――にこそ、判断を左右する情報があった。
- したがって、紙だけを照査する体制は、それ自体が検出力を持たない。不正がなくても誤りを見逃し、不正があれば当然に見逃す。
事案の全体像、公開記録で確認できる事実関係、cGMP のどの条文に違反したのか、資格停止(debarment)とは何かについては「Able Laboratories社倒産事件」で詳しく扱っている。本稿ではこれ以上の事実認定を行わない。
そして FDA の Q&A 10 は、この教訓を規制要求として明文化している。原本たる試験記録は、紙・電子を問わず second-person review(第二者による照査)の対象としなければならない(§211.194(a)(8))。照査すべき対象に「電子記録」が明示されている以上、紙だけを見て承認印を押す運用は要求を満たさない。承認と照査の役割分担については「承認者はレビューをしてはいけない」で論じている。
改ざんのリスク――再印刷という穴
想定される手口(実在の事案として述べるものではない)
プリントアウトのもう一つの脆弱性は、改変後の再印刷を検出する手段が紙面上に存在しないことである。次に述べるのは、実在の事案ではなく、リスクの所在を示すための想定である。
ある組織で、重要な条件が記載された記録が紙だけで保管されていたとする。後日その内容について争いが生じ、担当者が保管していた紙を提示した。しかしその紙が、原本を差し替えたものでないことを示す手段が、紙の側にはない。紙には「これが何度目の印刷か」「いつ印刷されたか」を示す情報が含まれていないからである。用紙もプリンタも同一であれば、物理的な差異も生じにくい。
ここでは具体的な改変の手順は記さない。重要なのは手口の詳細ではなく、検証手段の不在という構造である。電子記録であれば、ファイルのハッシュ値、監査証跡、システムログ、バックアップ世代という複数の独立した手がかりが残る。紙にはそれがない。
技術の進展がもたらすリスクの所在
画像処理技術や生成 AI の進展により、文書の外観を精巧に再現することの難易度は下がり続けている。署名や印影の像を含め、見た目の複製は容易になっている。
この点について本稿が述べるのは、リスクの所在だけである。すなわち、「見た目が本物らしいこと」は真正性の証明にならず、その傾向は今後さらに強まる、ということである。具体的な偽造手法は記さない。実務上の含意は単純である。外観による真正性の判断に依存しない仕組み――記録そのものに検証可能性を持たせる仕組み――に移行する必要がある。
プリントアウトが問題となる具体的な場面
1. 法的証拠としての脆弱性
紛争において、紙の記録が証拠として提出されることがある。しかし、一方が「その紙は改変されたものだ」と主張した場合、紙の記録だけでどちらが正しいかを示すことは難しい。
日本の民事訴訟法は、私文書について「本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する」と定めている(第228条第4項)。ここで注意が必要なのは、この推定規定が電磁的記録の証拠調べには準用されていない点である。民事訴訟法第231条の3第1項は、電磁的記録の証拠調べについて第220条から第228条までを準用するとしつつ、括弧書きで「同条第四項を除く」と明示している。紙と電子とでは、真正性を基礎づける法的な道具立てが異なる。
紙が正か電子が正か、どちらを原本として扱うべきか、証拠能力はどう考えるべきかという論点は、本稿の姉妹記事「紙が正か電子が正か」で正面から扱っている。
2. 規制対応とコンプライアンス
規制の世界では、記録の保管と管理に関する要求が条文として存在する。本稿の主題に直接効く条文を整理する。
21 CFR Part 11 §11.10(b)――「人が読める形式」と「電子形式」の両方
21 CFR §11.10(b)(eCFR)
この条文の要点は both … and である。「人が読める形式」だけでは足りない。「電子形式」でも正確かつ完全な複製を作成できなければならない。したがって、紙に出力できることをもって §11.10(b) を満たしたとする主張は成り立たない。関連して §11.10(c) は保存期間を通じた正確かつ迅速な取り出しを、§11.10(e) は監査証跡を要求している。Part 11 の執行方針の変遷については「Compliance Policy Guide 7153.17とは」を参照されたい。
ER/ES指針――印刷は「見読性」を満たす手段の一つにすぎない
厚生労働省「医薬品等の承認又は許可等に係る申請等における電磁的記録及び電子署名の利用について」(平成17年4月1日 薬食発第0401022号。いわゆる ER/ES指針)は、別紙 第3章で電磁的記録の三要件を定めている。
電磁的記録の内容を人が読める形式で出力(ディスプレイ装置への表示、紙への印刷、電磁的記録媒体へのコピー等)ができること。
厚生労働省 薬食発第0401022号 別紙 第3章 3.1.2
この条文の読み方を誤ってはならない。「紙への印刷」は、見読性という要件を満たすための出力手段の例として挙げられているにすぎない。指針は、印刷すれば電磁的記録の保存義務を果たしたことになる、とは一言も述べていない。むしろ、
| 要件 | 該当箇所 | 要求の骨子 | 印刷で満たせるか |
|---|---|---|---|
| 真正性 | 3.1.1 | 電磁的記録が完全、正確であり、かつ信頼できるとともに、作成・変更・削除の責任の所在が明確であること。変更時は変更前の情報も保存され、変更者が識別できること | 満たせない。変更前の情報と変更者は紙面に現れない |
| 見読性 | 3.1.2 | 電磁的記録の内容を人が読める形式で出力できること | 満たせる。ただしこれは出力手段の要件であって、保存の要件ではない |
| 保存性 | 3.1.3 | 保存期間内において、真正性及び見読性が確保された状態で電磁的記録が保存できること | 満たせない。真正性が確保されない以上、保存性も成立しない |
三要件は並列ではない。保存性は「真正性および見読性が確保された状態」を前提とする入れ子構造になっている。印刷は見読性のみを満たし、真正性を満たさない。したがって保存性も満たさない。これが、ER/ES指針の枠組みにおける「印刷して保管すればよい」への回答である。三要件の相互関係は「データインテグリティ保証の3要素」でも整理している。
なお、電磁的記録を長期にわたって保存すること自体にも別種の困難がある。この点は「電子記録の長期保存が困難な理由」および「タイムカプセルアプローチとは」で扱っている。「電子は消えるかもしれないから紙に出しておく」という発想が誤りである理由は、紙に出した時点で真正性が失われるからである。正しい解は媒体移行(マイグレーション)であり、ER/ES指針 3.1.3(2) はまさに移行を前提に、移行後も三要件が確保されていることを求めている。
電子帳簿保存法――「出力書面で保存する」規定は現行法にない
GxP 以外の領域でも、同じ方向の立法が進んでいる。電子計算機を使用して作成する国税関係帳簿書類の保存方法等の特例に関する法律(平成10年法律第25号。いわゆる電子帳簿保存法)第7条は、電子取引を行った場合、その取引情報に係る電磁的記録を保存しなければならないと定めている。
注目すべきは、旧法にあった「出力書面での保存」を認める規定が、現行の第7条には置かれていないことである。同法の附則には、旧法第10条ただし書の規定により電磁的記録を出力した書面等を保存する場合について経過的な読み替えを行う条項が残っており、そこから、かつては出力書面による保存が認められていたこと、そして現行法ではそれが条文上の選択肢ではなくなったことが確認できる。電子で発生したものは電子で保存するという原則は、GxP に固有のものではない。
金融分野の帳簿書類の保存期間
金融分野についても記録の保存が求められるが、根拠条文には注意が必要である。金融商品取引業等に関する内閣府令第157条は業務に関する帳簿書類を列挙し、同条第2項が保存期間を定めている。期間は一律ではなく、帳簿書類の区分に応じて5年・7年・10年である。
3. 内部統制の観点
企業の内部統制において、文書管理は重要な要素である。特に財務報告に関連する記録については、変更履歴と承認プロセスの記録が求められる。紙の記録では、誰がいつ承認したのか、どのような変更が加えられたのかを客観的に示すことが難しい。
ただし本稿は、この点について内部統制の一般論を超える主張はしない。「内部統制報告制度の実施基準がスプレッドシート単体運用や紙のみの管理を名指しで否定している」といった説明を見かけることがあるが、実施基準の本文にそうした記述は確認できていない。裏づけの取れない規制記述を、規制の名前を借りて述べるべきではない。
「紙の方が安全」という誤解
なぜこの誤解が生まれたのか
「デジタルデータはサイバー攻撃を受ける可能性があるが、紙なら物理的に保管できるから安全だ」という考え方は、一見合理的に思える。確かに、適切に保管された紙の記録は、遠隔からのサイバー攻撃を受けることはない。
しかし、この考え方は次の点を見落としている。
- 物理的なアクセスの容易さ:紙の記録は、保管場所にアクセスできる者であれば持ち出し・複製・差し替えが可能である。電子記録のような細粒度のアクセス制御や暗号化は適用できない。誰がいつ書庫に入り、どのファイルを開いたかを自動的に記録することも通常はできない。
- 検証手段の欠如:電子記録であれば、ハッシュ値や電子署名により改変の有無を検証できる余地がある。紙の記録にはこの種の検証手段が存在しない。
- 可用性の錯覚:紙は火災・水損・虫害・退色に弱い。PIC/S PI 041-1 は、感熱紙のような非永続的な印刷物については検証済みの真正な写しを別途保持すべきこと、印刷物の中には経年で退色するものがあることを明示している。「紙は残る」という前提自体が、条件つきでしか成立しない。
ただし、紙が原本になる場面は確かに存在する
公平を期すために、逆方向の事実も明示しておく。すべての印刷物が二級品なのではない。元のデータがそもそも動的でない場合、印刷物が原本そのものになる。
MHRA 6.2 は、電子データを保存しない、あるいは印字出力しか提供しない基本的な電子機器(例として天びんや pH メーターを挙げている)については、その印字出力が生データを構成すると述べている。FDA の Q&A 10 も同趣旨で、「pH メーターや天びんは、原本たる紙の印字出力または静的記録を生成することがある。この場合、その紙の印字出力または静的記録、あるいはその真正な写しを保持しなければならない」としている。
PIC/S PI 041-1 の 8.9.1 は、この種の機器の記録について実務的な要求を置いている。すなわち、原本たる記録に、記録を生成した者が署名・日付を記入し、検体 ID やバッチ番号といったトレーサビリティを確保する情報を記載したうえで、製造記録または試験記録に添付することである。
判断の分かれ目
- 元のデータが動的か静的かを機器ごとに判定する。判定は文書化する。
- 元が動的(CDS、分光光度計、LIMS、Excel 等)なら、電子記録が原本。印刷物は参照用にすぎない。
- 元が静的(データを保存しない天びん・pH メーター等)なら、印字出力が原本。署名・日付・トレーサビリティ情報を付し、退色対策を講じたうえで保管する。
- MHRA 6.7 は「電子システムが動的な保存を可能とする場合、静的(印刷/手書き)データを動的(電子)データに優先して保持することは適切でない」と述べている。選べる場合は電子を選べ、というのが規制側の立場である。
真の安全性とは――4要件を手順に落とす
真に信頼できる記録管理とは、次の要件を満たすものである。精神論に終わらせないため、それぞれについて「何を手順書に書き、何を記録として残すのか」を併記する。
| 要件 | 意味 | 手順書に定めること | 残すべき記録 |
|---|---|---|---|
| 真正性 | 記録が、主張される作成者によって作成されたことを示せる | ID とパスワードの個人単位付与、共有アカウントの禁止、電子署名の適用範囲、署名の意味の明示 | アカウント発行・変更・削除の記録、署名記録(署名者・日時・意味) |
| 完全性 | 記録が不適切に改変されていないことを検証できる | 監査証跡の常時有効化と無効化禁止、変更理由の必須入力、レビュー対象とする監査証跡の範囲と頻度 | 監査証跡そのもの、監査証跡レビューの実施記録(対象・実施者・日付・所見) |
| 可用性 | 必要なときに記録へアクセスできる | 保存期間、バックアップとリストアの手順とテスト頻度、媒体移行の判断基準、システム廃止時の措置 | バックアップ実施記録、リストア試験記録、移行の検証記録 |
| 監査可能性 | 記録に対するすべての操作が記録され、追跡できる | 誰が何を照査するか(作成者と照査者の分離)、第二者照査の対象に電子記録を明記 | 照査記録。紙だけを見て承認した記録は、この要件を満たさない |
紙の記録は、これらの要件のほとんどを単独では満たすことができない。逆に言えば、紙を使うのであれば、これらを補う別の仕組みを個別に設計して文書化しなければならないということである。
電子記録管理の優位性――ただし条件つき
暗号学的な仕組みと、その限界
現代の記録管理システムでは、次のような技術により信頼性を高めることができる。ただし、いずれも「これを使えば証明できる」と言い切れるものではない。前提条件を明示しておく。
| 技術 | 何ができるか | 成立の前提(ここが崩れると意味を失う) |
|---|---|---|
| ハッシュ値 | 記録の内容が1ビットでも変われば値が変わるため、同一性の照合に使える | ハッシュ値そのものが保護されていること。記録と同じ場所に、同じ権限で書き換えられる形で置いてあるハッシュ値は、記録と一緒に付け替えられるため何も証明しない。第三者保管、追記専用の保管、あるいは公証的な仕組みが要る |
| 電子署名 | 署名者と記録の結合を検証でき、事後の改変を検出できる | 秘密鍵が本人の管理下にあること、証明書が有効であること、検証時点で失効情報を確認できること。鍵が共有されていれば、署名は誰のものでもなくなる |
| タイムスタンプ | ある時点にその記録が存在したことを、第三者の関与のもとで示せる | 時刻認証局の信頼性と、その証明が保存期間を通じて検証可能であり続けること。アルゴリズムの危殆化に備えた長期署名の設計が要る |
| 分散台帳への記録 | ハッシュ値を書き換え困難な台帳に記録する運用が一部で試みられている | GxP 領域での規制当局の受入れ状況について、本稿では一次情報を確認できていない。採用にあたっては、当局対応の観点から個別に確認が必要である |
言い過ぎに注意
- 「ハッシュ値で改ざんを証明できる」は言い過ぎである。正しくは「保護されたハッシュ値と照合できれば、内容が一致するかどうかを検出できる」。
- 「電子署名があるから真正である」も言い過ぎである。署名の技術的な検証と、法的な真正性の推定は別の話である。日本の電子署名法(平成12年法律第102号)第3条は、本人による電子署名が行われているときに真正な成立を推定するが、その「本人だけが行うことができる」という要件が実務上どう充足されるかが常に問われる。
- 要するに、技術は「検証可能性」を与えるだけであり、「正しさ」を与えるわけではない。検証を誰がいつ行い、その結果をどう記録するかという運用まで含めて初めて意味を持つ。
アクセス制御と権限管理
電子的な記録管理システムでは、誰がどの記録にアクセスできるかを細かく制御できる。例えば次のような区分である。
- 閲覧のみ可能な利用者
- 編集可能だが承認権限のない利用者
- 最終承認権限を持つ利用者
- システム管理者(業務データの内容には責任を持たない者として分離する)
これらの権限設定と、行使されたアクセスの記録が自動的に保存される。21 CFR §11.10(d) はシステムアクセスを権限のある個人に限定することを、同(g) は権限チェックにより、権限のある者だけがシステムを使用し、記録に電子署名し、入出力装置にアクセスし、記録を変更できるようにすることを求めている。紙の記録でこの水準の管理を実現することは、現実には難しい。
▲【動画】データインテグリティの誤解と要点 第1章 なぜデータインテグリティが重要か(株式会社イーコンプライアンス)
実務での対応策
移行期における推奨アプローチ
すぐに完全なペーパーレス化を実現することが難しい場合でも、次の順序で対策を講じることでリスクを低減できる。
- 記録の棚卸しと、動的/静的の判定まず、自社が保有する規制対象記録を一覧化し、記録ごとに「元のデータは動的か静的か」を判定する。判定は機器・システム単位で行い、判定結果と根拠を文書として残す。この一覧がなければ、以降のすべての判断が場当たりになる。
- 電子をマスター、紙は参照用と明文で位置づける公式記録は電子形式で保持し、監査証跡を有効化する。「どちらが正か」を手順書に一文で書き切ること。曖昧なまま運用すると、査察の場で担当者ごとに異なる回答が出る。詳細は「紙が正か電子が正か」を参照されたい。
- 監査証跡レビューを手順に組み込む監査証跡は「有効化してあること」ではなく「照査していること」に意味がある。対象・頻度・実施者・記録様式を定める。Able Laboratories 社の事案が示したのは、証跡があっても見なければ機能しないという事実である。
- 印刷物には出所と位置づけを機械的に刻印するやむを得ず印刷する場合は、システム側の設定で「参照用コピー/公式記録ではない」旨の透かし、印刷日時、印刷者、元記録の識別子(システム名・レコードID・バージョン)を自動的に付与する。人手による記入に依存しないことが要点である。
- 重要記録には印刷制限を適用する特に機微な記録については、印刷機能そのものを権限で制限する。制限の設定内容と例外承認のルールを文書化する。
- 紙が原本となる記録には、別建ての管理策を置くデータを保存しない機器の印字出力など、紙が原本になる記録については、署名・日付・トレーサビリティ情報の記入、退色対策(感熱紙の場合は検証済みの真正な写しの作成)、製造・試験記録への添付を手順化する。
- 媒体移行の計画をあらかじめ持つ電子で持つと決めた以上、システムの更新・廃止に備えた移行計画が必要である。ER/ES指針 3.1.3(2) は、移行後の電磁的記録についても真正性・見読性・保存性が確保されていることを求めている。
紙に出す前に確認する3つの問い
印刷ボタンを押す前に
- この記録の元データは動的か。動的なら、この印刷物は原本ではない。原本は別にある。
- この印刷物は、誰が何のために使うのか。読むためなら参照用でよい。判断の根拠にするなら、判断者は電子記録側を見なければならない。
- この印刷物が単独で保管されたとき、後日それを見た者は「元があること」に気づけるか。気づけないなら、刻印が足りていない。
組織への定着――教育と評価も記録要件に落とす
技術的な対策だけでは定着しない。ただし「意識改革」で終わらせては何も残らない。教育も評価も、記録として残る形に落とすことが肝要である。
- 教育訓練:対象者、カリキュラム(静的記録と動的記録の区別、監査証跡レビューの実務、印刷物の位置づけ)、実施記録、理解度の確認方法、再教育の頻度を手順に定める。21 CFR §11.10(i) は、電子記録/電子署名システムを開発・保守・使用する者が、割り当てられた業務を遂行するための教育・訓練・経験を有していることの確認を求めている。
- 責任の明文化:§11.10(j) は、電子署名のもとで開始された行為について個人に説明責任を負わせる文書化された方針の策定と遵守を求めている。「押印の代わりに電子署名を使う」だけでは足りず、その署名が何を意味するかを定める文書が要る。
- 進捗の可視化:ペーパーレス化の進捗を部門ごとに把握する場合も、指標と測定方法を定義し、測定結果を記録する。指標のない推進は、掛け声で終わる。
法的・規制的な動向
電子署名法とその射程
日本では電子署名及び認証業務に関する法律(平成12年法律第102号。電子署名法)が平成13年4月1日から施行されている。同法第2条第1項は、電子署名を次の2要件を満たす措置と定義している。
二 当該情報について改変が行われていないかどうかを確認することができるものであること。
電子署名及び認証業務に関する法律 第2条第1項
そして第3条(第2章「電磁的記録の真正な成立の推定」)は、情報を表すために作成された電磁的記録について、本人による電子署名(これを行うために必要な符号および物件を適正に管理することにより、本人だけが行うことができることとなるものに限る)が行われているときは、真正に成立したものと推定すると定めている。
ここで押さえるべき射程は次のとおりである。
- 推定の対象は電磁的記録である。電磁的記録を印刷した紙は、この条文の対象ではない。電子署名された記録を紙に印刷した瞬間、第3条の推定は働かなくなると考えるのが自然である。
- 括弧書きの「符号及び物件を適正に管理することにより、本人だけが行うことができることとなるものに限る」が実質的な要件である。鍵の管理が甘ければ、技術的に署名が付いていても推定の前提が崩れる。
- 紙の私文書について働く民事訴訟法第228条第4項の推定は、前述のとおり電磁的記録の証拠調べには準用されていない(同法第231条の3第1項の括弧書き)。紙と電子は、それぞれ別の条文で別の道具立てを持つ。どちらかが一律に強いという関係ではない。
電子署名を運用する際に明示すべき事項については「電子署名の3つの明示事項」を、Part 11 における電子署名の設計思想については「なぜ2人以上の共謀が必要とされたのか」を参照されたい。
ハイブリッド運用は「移行期の妥協」として扱う
PIC/S PI 041-1 は、ハイブリッドシステムについて「特有の追加的な管理が必要であり、この理由から、ハイブリッドシステムの使用は推奨されない(discouraged)」という立場を明示している。同ガイダンスは、ハイブリッドシステムのデータレビューには増加した労力が必要になりやすいことも述べている。
紙と電子を併存させることは、両方の弱点を引き受けることを意味する。電子側の監査証跡レビューと、紙側の照合・保管の両方を回さなければならない。ハイブリッド運用が生まれた経緯とその構造的な問題については「ハイブリッドシステムとは」および「タイプライターエクスキューズとは」で扱っている。
まとめ
プリントアウトが信頼できない理由は、感覚ではなく規制文書の定義に根拠を持つ。
- 動的記録から静的記録への転落:MHRA 6.11.1、FDA Q&A 1.d、PIC/S PI 041-1 用語集は、いずれも static record を「利用者と記録内容の相互作用をほとんど許さない固定形式」と定義し、印刷したクロマトグラムを典型例として挙げている。
- メタデータの喪失:作成日時、編集者、処理条件、単位といった、数値に意味を与える情報が紙に転写されない。
- 監査証跡の欠如:記録に対する操作履歴を紙面から追跡できない。§11.10(e) の要求を紙側で満たすことはできない。
- 再現性の喪失:再積分・再計算ができないため、「別の結果があり得たか」を検証できない。印刷範囲を絞れば不純物のピークは紙から消える。
- 検証手段の不在:改変後の再印刷を紙面上で検出する手段が存在しない。
重要なのは、「電子か紙か」という二者択一ではない。元のデータが動的か静的かを記録ごとに判定し、動的なものは動的なまま保持し、印刷物には参照用であることを機械的に刻印するという設計である。そして、天びんや pH メーターのように元が静的な記録については、印字出力そのものを原本として、署名・トレーサビリティ・退色対策を伴って管理する。
MHRA 6.7 の一文が、この記事の結論を最も簡潔に言い表している。電子システムが動的な保存を可能とする場合、静的(印刷/手書き)データを動的(電子)データに優先して保持することは適切でない。紙に出すこと自体が禁じられているのではない。紙に出したものを原本の座に据えることが、規制上の問題を生むのである。
まとめ――5つのポイント
- ポイント1印刷物は元データの一部でしかない。紙に写るのは、そのとき採用された1通りの見え方だけである。
- ポイント2MHRA・FDA・PIC/S は static record と dynamic record を明文で定義し、動的記録から作られた静的記録は原則として原本にも生データにもならないとしている。
- ポイント3ER/ES指針において、印刷は「見読性」を満たす出力手段の一つにすぎない。真正性を満たさず、したがって保存性も満たさない。21 CFR §11.10(b) は「人が読める形式」と「電子形式」の両方を求めている。
- ポイント4Able Laboratories 社の事案は、紙だけを照査する体制がそれ自体として検出力を持たないことを示した。監査証跡は存在していたが、照査されていなかった。
- ポイント5ただし、元が静的な記録では印字出力が原本になる。機器ごとに動的/静的を判定し、判定結果を文書化することが実務の出発点である。
参考・出典(一次情報源)
- MHRA「Guidance on GxP data integrity」(’GXP’ Data Integrity Guidance and Definitions, Revision 1: March 2018。PDF。6.2 Raw data/6.7 Recording and collection of data/6.11.1 Original record/6.11.2 True copy/6.17.1 Archive)
- FDA「Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers」(Guidance for Industry, December 2018。1.b メタデータ/1.d static と dynamic/Q10 紙の印字出力と静的記録の保持)
- PIC/S「PI 041-1 Good Practices for Data Management and Integrity in Regulated GMP/GDP Environments」(1 July 2021。7.7.2/7.7.3/8.9.1/9.10 Management of Hybrid Systems/Glossary: Static Record, Dynamic Record, Metadata, Hybrid Systems)
- eCFR「21 CFR Part 11 – Electronic Records; Electronic Signatures」(§11.10(b)(c)(d)(e)(g)(i)(j))
- 厚生労働省「医薬品等の承認又は許可等に係る申請等における電磁的記録及び電子署名の利用について」(平成17年4月1日 薬食発第0401022号。別紙 第3章 3.1.1 真正性/3.1.2 見読性/3.1.3 保存性)
- e-Gov法令検索「電子署名及び認証業務に関する法律」(平成12年法律第102号。第2条・第3条。附則により平成13年4月1日施行)
- e-Gov法令検索「民事訴訟法」(平成8年法律第109号。第228条第4項、第231条の3第1項)
- e-Gov法令検索「電子計算機を使用して作成する国税関係帳簿書類の保存方法等の特例に関する法律」(平成10年法律第25号。第7条)
- e-Gov法令検索「金融商品取引業等に関する内閣府令」(第157条 業務に関する帳簿書類、同条第2項 保存期間)