
「リスクは多めに見積もる」が、結局は患者を苦しめる
~リスクベースド・アプローチが守るべき、もう一つの天秤~
「分からないから、念のためリスクは多めに見積もっておく」――慎重に聞こえるこの台詞は、実は規制当局の意図に反した運用である。過剰な品質管理はコンプライアンスコストとなり、最終的に医療費として患者が負担する。ISO 14971:2019 は、リスクコントロール手段それ自体が新たなリスクを生み得ること(7.5)、そしてベネフィット・リスク分析(7.4)を明示的に要求している。本稿では、「多めに丸める」ことがなぜ患者を苦しめるのかを、規格の枠組みで整理する。
「念のため厳しめに」は、判断停止である
監査やコンサルテーションの現場で、こんな台詞をよく耳にする。
「怖いので、規制要件は厳しめに解釈しておく」
――監査・コンサルテーションの現場でよく耳にする発言(趣旨)
慎重で誠実な姿勢のように聞こえる。だが、これは規制当局の意図に反した運用である。
ISO 13485:2016 の 4.1.2 b) は、品質マネジメントシステムに必要なプロセスの管理に「リスクに基づくアプローチ(risk based approach)」を適用することを要求している。ここで言うリスクは、ISO 13485 の序文が述べるとおり、製品の安全性・性能に関するものと規制要求事項への適合に関するものの双方を含む。
狙いは何か。患者の安全性の担保である。同時にもう一つ、見落とされがちな目的がある。患者負担の軽減である。
コンプライアンスコストは、最後は患者が払う
仕組みは単純だ。組織がコンプライアンスコスト、すなわち規制遵守のためのコストを使えば、そのコストは組織が自腹で吸収するのではなく、材料費・部品費・人件費を経由して、最終的に医療費に乗る。乗った医療費を支払うのは患者である。すなわち、過剰な品質管理は患者の経済的負担に直結する。
クラスIの機器に対してクラスIVと同水準の管理を施せば、その分だけ製品価格は跳ね上がる。
胃腸薬や栄養剤に抗がん剤と同じ管理コストを乗せれば、その薬は誰も買えなくなる。
逆に、クラスIVの機器や一錠数万円の抗がん剤の品質管理を「医療費を上げたくないから」と適当に済まされれば、患者の生命が危機に晒される。
| 管理水準の置き方 | 患者の安全性 | 患者の経済的負担 | 結果 |
|---|---|---|---|
| リスクに対して過小 | 危険に晒される | 低い | 不可――生命に直結する |
| リスクに対して過剰 | 確保される | 不必要に高い | 不可――高額化・入手困難化で患者が不利益を被る |
| リスクに見合った水準 | 確保される | 必要十分 | これが規制当局の求める姿 |
つまり規制当局が求めているのは、リスク(安全性)と患者負担を天秤にかけ、最も適切なバランスを取ることである。
怖いから多めに、ではない。
リスクに見合った水準で、必要十分なコストをかける――これがリスクベースド・アプローチの本旨である。
規格はこの「天秤」をどう定めているか――ISO 14971:2019
「多めに見積もれば安全側だ」という思い込みは、医療機器のリスクマネジメント規格である ISO 14971:2019 の構造を読めば成り立たないことが分かる。同規格は、リスク低減を無条件に善とはしていない。
| 箇条 | 表題(要旨) | 「多めに丸める」となぜ矛盾するか |
|---|---|---|
| 4.2 | 経営者の責任(リスク受容可能性の方針) | 受容可能性の基準を定める方針を確立するのはトップマネジメントの責務。現場が「怖いから多め」と丸めるのは、この責務の代行にはならない。 |
| 4.4 | リスクマネジメント計画(受容基準を含む) | 受容基準はあらかじめ計画に定めておくもの。案件ごとに「念のため」で動かせば、基準そのものが機能しない。 |
| 7.1 | リスクコントロール手段の選択肢分析 | ①本質的安全設計 ②保護手段 ③安全に関する情報、の優先順位で検討する。優先順位を飛ばして管理を積み増しても、リスクは下がらずコストだけが増える。 |
| 7.3 | 残留リスクの評価 | 低減後に残るリスクを、計画で定めた基準に照らして評価する。基準が「多め」に膨らんでいれば、この評価自体が空転する。 |
| 7.4 | ベネフィット・リスク分析 | 残留リスクが受容できない場合でも、ベネフィットが上回るなら受容し得る。リスクだけを見て機器を捨てる判断を規格は求めていない。 |
| 7.5 | リスクコントロール手段から生じるリスク | 追加した管理策そのものが新たなハザードや新たな残留リスクを生んでいないかを確認することを要求。管理の積み増しは「必ず安全側」ではない。 |
| 7.6 | リスクコントロールの完全性 | すべてのリスクが検討されたことを確認する。網羅性の問題であり、水準の上乗せとは別である。 |
| 8 | 総合的な残留リスクの評価 | 個々のリスクではなく全体を、ベネフィットと照らして評価する。 |
リスク低減策そのものが、新たなリスクを生む
とりわけ実務で軽視されがちなのが 7.5 である。二重チェックを増やせば、確認の分散によって「誰も本気で見ていない」状態が生まれ得る。アラームを増やせばアラーム疲労を招き、重要な警報が無視され得る。手順書を厚くすれば、現場は読まなくなる。滅菌条件を過剰に厳しくすれば、材料が劣化して別の故障モードが立ち上がる。
これらはいずれも、善意の管理強化が新たなハザードを持ち込んだ例である。ISO 14971:2019 が 7.5 をわざわざ独立した箇条として置いているのは、この現象が例外ではなく常態だからである。
有用な機器が市場から消えるという害
過剰な見積りの帰結は、価格の上昇だけではない。
- 市場からの撤退――採算が合わなくなった希少疾患向け機器や小児用機器は、真っ先に供給が止まる。代替品のない領域では、これは患者にとって直接の不利益である。
- ユーザビリティの低下――ロックや確認手順を積み増した結果、緊急時に使えない機器になる。
- 審査・上市の遅延――不要な検証に時間を費やせば、その分だけ患者は治療機会を失う。
- CAPAのパンク――軽微な不適合まで本格的な是正処置に乗せれば、本当に重要な案件に人手が回らなくなる。
ISO 14971:2019 が 7.4 と箇条8でベネフィット・リスク分析を求めているのは、まさにこの「リスクだけを見て有用な機器を失う」事態を避けるためである。リスクは、ベネフィットと対で評価して初めて意味を持つ。
EUでは MDR (EU) 2017/745 附属書I 第1章(一般安全性・性能要求事項)が、リスクを「可能な限り(as far as possible/AFAP)」低減することを求め、その際にベネフィット・リスク比を損なわないことを条件としている。すなわちコストを理由にリスクコントロールを見送ることは認められない。
したがって「ALARPまで下げたので十分である」という説明は、少なくともEU向け製品では通用しない。本稿の主旨は「コストを理由に安全対策を省いてよい」ということでは断じてない。技術的に可能な低減は AFAP で行い切ったうえで、どこに管理の重みを置くかをリスクに比例して配分せよ、というのが趣旨である。
是正処置の重さも同じである
是正処置の重さも同じだ。
社内文書のサイン漏れひとつで本格的な是正処置を起こしていては、CAPAがパンクする。
リスクに見合った処置をとれ――これがISO 13485:2016 8.5.2 の要求でもある。同項は、是正処置が「遭遇した不適合の影響に見合ったもの(proportionate to the effects of the nonconformities encountered)」でなければならないと明記している。つまり規格は、軽微な不適合に重い処置を課すことを求めていない。むしろ、比例していない運用は 8.5.2 の趣旨に反する。
| 不適合の例 | 影響の程度 | 見合った処置(例) | 過剰な処置の弊害 |
|---|---|---|---|
| 社内文書の承認サイン漏れ | 製品品質・安全性への影響なし | 記録の是正と傾向監視。反復するなら様式・システムを見直す | 本格CAPAを起こすと工数を浪費し、重要案件が滞る |
| ラベル表示の誤記(出荷前に検出) | 限定的(社内で封じ込め) | 不適合製品の管理+原因分析。表示工程の是正 | ― |
| 植込み型機器の材料ロット逸脱 | 患者の生命・健康に直結 | 本格的なCAPA、影響範囲調査、必要に応じ回収・当局報告 | ここを軽く扱えば取り返しがつかない |
▲【動画】【ワンポイントMD】第135回「ALARPまで下げた」では、もう通らない(株式会社イーコンプライアンス)
受容基準を決めるのは、現場ではなく経営者である
「念のため多めに」が現場から出てくる最大の理由は、組織としての受容基準が示されていないことにある。基準がなければ、担当者は自分の身を守る方向――すなわち上振れ――に丸めるしかない。
ISO 14971:2019 は 4.2 で、リスクの受容可能性を判断するための基準を定める方針を確立することをトップマネジメントの責務として定め、4.4 で、その基準をリスクマネジメント計画に文書化することを求めている。これは現場の裁量ではなく、明確に経営判断の領域である。
組織のどのプロセスにどこまでの管理を掛けるかという意思決定が経営マターであることは、(品質)マニュアルは、経営者が書くのであるおよび品質管理はトップダウンで行うものであるで述べたとおりである。
プロフェッショナルとは何者か
- 「念のため厳しめに」は、一見プロフェッショナルに見えて、その実、判断停止である。
- プロフェッショナルとは、リスクを正確に見積もる人のことを指す。
- 多めに丸めて逃げる人ではない。
- 正確に見積もるには、根拠となるデータ(不具合情報、市販後情報、類似機器の情報)と、それを評価する力量が要る。ISO 14971:2019 箇条10 が製造・製造後活動からの情報収集を求めているのは、この見積りの精度を上げ続けるためである。
過剰な品質管理は、品質管理ではない
過剰な品質管理は、品質管理ではない。患者の財布から余計に金を抜く行為である――この自覚を持つところから、本物のリスク思考は始まる。
なお、リスクの見積りを担う人材にどのような力量が必要かという論点は、必要な力量を持った人は「育てる」のではなく「集める」および力量を構成する4つの要素に繋がる。また、リスクに見合わない「作文CAPA」が生まれる構造については、CAPAの根本原因を「教育不足」にしてはならないを参照されたい。
まとめ――3つのポイント
- リスクベースドアプローチには天秤が二つある患者の安全性と、患者の経済的負担である。コンプライアンスコストは組織が吸収するのではなく、医療費を経由して患者が支払う。
- 規格は「多めに丸める」ことを求めていないISO 14971:2019 は、リスクコントロール手段そのものが新たなリスクを生み得ること(7.5)と、ベネフィット・リスク分析(7.4/箇条8)を要求する。ISO 13485 8.5.2 は是正処置が不適合の影響に見合ったものであることを求める。
- 受容基準は経営者が定めるISO 14971:2019 4.2/4.4 は、リスク受容可能性の方針と基準をトップマネジメントの責務・計画の記載事項としている。基準を示さずに現場へ丸投げすれば、担当者は必ず上振れに丸める。「怖いから多めに」を生んでいるのは経営の不作為である。
参考・出典(一次情報源)
- ISO「ISO 14971:2019 Medical devices – Application of risk management to medical devices」(4.2 経営者の責任/4.4 リスクマネジメント計画/7.1 選択肢分析/7.3 残留リスク評価/7.4 ベネフィット・リスク分析/7.5 リスクコントロール手段から生じるリスク/7.6 完全性/8 総合的残留リスク/10 製造・製造後活動)
- ISO「ISO/TR 24971:2020 Guidance on the application of ISO 14971」(リスク受容可能性の考え方の解説)
- ISO「ISO 13485:2016 Medical devices – Quality management systems – Requirements for regulatory purposes」(4.1.2 b) リスクに基づくアプローチ/8.5.2 是正処置)
- EUR-Lex「Regulation (EU) 2017/745 on medical devices (MDR)」(附属書I 一般安全性・性能要求事項、リスク低減の優先順位と “as far as possible”)
- 厚生労働省「医療機器及び体外診断用医薬品の製造管理及び品質管理の基準に関する省令(平成16年厚生労働省令第169号)」(第63条 是正措置/第64条 予防措置)
- 厚生労働省「QMS調査要領について」
- FDA「Classify Your Medical Device」(米国のクラス分類)
- FDA「Quality Management System Regulation (QMSR)」(2026年2月2日施行)
- FDA「Compliance Program 7382.850 – Inspection of Medical Device Manufacturers」(PDF/リスクベースの査察)
- PMDA「ICH-Q10 品質システム(医薬品品質システムに関するガイドライン)」