
タイプライターエクスキューズとは
医薬品業界において、電子記録の管理は極めて重要な課題である。特に米国FDA(食品医薬品局)が定める21 CFR Part 11は、電子記録と電子署名に関する規制として広く知られている。しかし、この規制の適用範囲を巡っては、長年にわたり議論が続けてきた。その中で登場したのが「タイプライターエクスキューズ」という概念である。
タイプライターエクスキューズとは何か
基本的な考え方
タイプライターエクスキューズとは、コンピュータシステムを「電子記録を保持しないタイプライターのような道具」として使用する場合、21 CFR Part 11の適用対象外とする主張である。
具体的には、以下のような使用方法を指す。
- コンピュータで文書を作成する
- 作成した文書を紙に印刷する
- 印刷物に手書き署名を行う
- 電子データは保存せず、印刷後に削除する
この方法では、最終的な記録媒体は紙であり、電子データは一時的な作成ツールに過ぎないという理屈である。まさにタイプライターで文書を作成するのと同じように、コンピュータを「印刷機」として扱うという発想である。
なぜこの概念が生まれたのか
21 CFR Part 11が1997年に施行された当初、その要求事項は非常に厳格であった。電子記録システムには、監査証跡、バリデーション、アクセス制御など、多岐にわたる要件が課せられた。
多くの企業にとって、これらの要件を満たすシステムを構築・維持することは、技術的にもコストの面でも大きな負担であった。そこで、一部の企業や業界関係者から「単純な文書作成にまでPart 11を適用する必要があるのか」という疑問が生じた。
タイプライターエクスキューズは、この負担を回避するための実務的な解釈として、業界内で広まっていった。
FDAの初期の見解
暗黙の容認
Part 11施行当初、Part 11施行後、FDAの解釈が不明確な期間が存在し、業界では様々な運用が行われていた。この沈黙が、業界内では「暗黙の容認」と受け取られ、多くの企業がこのアプローチを採用した。
実際、査察においても、紙記録に適切な署名があり、データの完全性が保たれていれば、電子データの保存状況について厳しく追及されることは少なかった。
業界での実践例
この時期、多くの企業で以下のような運用が行われていた。
製造記録の作成
- 製造指図書をWordで作成し印刷
- 製造担当者が手書きで記入・署名
- 原本は紙として保管
試験記録の管理
- Excelで分析データを入力
- 結果を印刷して紙の記録簿に貼付
- 担当者と承認者が手書き署名
- 電子ファイルは定期的に削除
これらの運用は、規制要件を満たしながら、Part 11の複雑な要件を回避する実務的な解決策として機能していた。
FDAの見解変更
2003年のガイダンス
2003年、FDAは「Part 11: Electronic Records; Electronic Signatures — Scope and Application」というガイダンスを発行した。このガイダンスは、Part 11の適用範囲を明確化し、規制の執行方針を示すものであった。
この中でFDAは2003年ガイダンスで、タイプライターエクスキューズが認められる条件を明確化した。電子データが保存される場合は電子記録として扱うという原則を明示し、Part 11の適用範囲を絞り込んだ。
「ハイブリッドシステム」の概念
FDAは、電子記録と紙記録を併用するシステムを「ハイブリッドシステム」と呼び、以下の原則を示した。
- 電子記録が保持される場合、それは規制対象となる
たとえ最終的に紙に印刷して署名したとしても、電子データがシステム内に保存されている限り、それは電子記録として扱われる。単に「タイプライターとして使っている」という主張だけでは、Part 11の適用を免れることはできない。 - 真の記録(True Copy)の原則
規制上の記録として意味を持つのは、どちらが「真の記録」であるかによる。電子データが修正可能な状態で保存されており、それが業務で参照・使用されているなら、電子記録が真の記録である。
実務への影響
この見解変更により、多くの企業は運用の見直しを迫られた。
- 選択肢1:完全な紙ベース運用 電子システムを使用せず、手書きまたはタイプライターで記録を作成する。現実的には非効率であり、ほとんどの企業は選択しなかった。
- 選択肢2:Part 11準拠の電子システム構築 電子記録システムを適切にバリデーションし、Part 11の要件を満たす。多くの企業がこの方向に舵を切った。
- 選択肢3:適切なハイブリッド運用 電子データを一時的な作業用としてのみ使用し、紙記録を正式な記録とする。ただし、電子データが保存される場合は適切な管理が必要。
現在の理解と実践
データインテグリティの重要性
2010年代以降、FDAはデータインテグリティ(データの完全性)をより重視するようになった。ALCOA+原則(Attributable, Legible, Contemporaneous, Original, Accurate + Complete, Consistent, Enduring, Available)が強調され、電子記録であれ紙記録であれ、データの信頼性を確保することが求められている。
この文脈では、タイプライターエクスキューズのような回避的なアプローチは、データインテグリティの観点から問題視される可能性がある。
監査証跡の必要性
現代の規制環境では、「誰が、いつ、何を、なぜ変更したか」という監査証跡が重視される。電子システムはこれを自動的に記録できるが、紙ベースではこれが困難である。
したがって、単に規制要件を回避するために紙記録を選択することは、長期的には企業のリスクを高める可能性がある。
適切なシステム設計
現在では、タイプライターエクスキューズを追求するのではなく、適切に設計された電子記録システムを構築することが推奨されている。
- リスクベースアプローチ
すべてのシステムに同じレベルのPart 11対応を求めるのではなく、患者の安全性や製品品質への影響度に応じて、適切なレベルの管理を適用する。 - クラウドサービスの活用
Part 11準拠のクラウドベースのシステムが普及しており、中小企業でも比較的容易に電子記録管理が可能になっている。
教訓と今後の展望
規制の本質を理解する
タイプライターエクスキューズの歴史から学ぶべきは、規制の文字面だけでなく、その本質的な目的を理解することの重要性である。
Part 11の目的は、電子記録の信頼性を確保し、データの改ざんを防ぐことにある。この目的を達成する方法として、適切な電子システムを構築することが、長期的には最も効率的で確実な選択である。
テクノロジーの進化を味方につける
2025年現在、AIやクラウド技術の発展により、規制準拠はかつてほど困難ではなくなっている。規制を「回避すべき障害」ではなく、「品質を高める機会」として捉えることで、より強固なシステムを構築できる。
例えば、AI技術を活用した異常検知システムは、データインテグリティの問題を早期に発見できる。また、クラウドベースのシステムは、監査証跡や電子署名の機能を標準で提供している。
透明性と説明責任
タイプライターエクスキューズのような「グレーゾーン」を利用するアプローチは、規制当局との信頼関係を損なう可能性がある。
むしろ、自社のシステムと運用について透明性を保ち、規制当局と建設的な対話を行うことが、長期的な成功につながる。査察時に自信を持って説明できるシステムを構築することが重要である。
まとめ
タイプライターエクスキューズは、規制対応の負担を回避しようとする試みとして生まれたが、FDAの見解変更により、その有効性は否定された。この経緯は、規制対応において「小手先の回避策」ではなく、「本質的な理解と適切な対応」が重要であることを示している。
現在では、テクノロジーの進化により、Part 11準拠のシステム構築は以前ほど困難ではない。規制を遵守しながら業務効率を高めることは、十分に実現可能である。
重要なのは、規制の背景にある患者の安全性とデータの信頼性という根本的な目的を理解し、それを達成するための最適な方法を選択することである。タイプライターエクスキューズの歴史を教訓として、より成熟した規制対応のアプローチを構築していくことが、これからの医薬品業界に求められている。

