
安全とは何か – ゼロリスクは存在しない理由
「この製品は安全です」「安全な環境を提供します」——私たちは日常的にこうした言葉を耳にする。しかし、そもそも「安全」とは何を意味するのだろうか。多くの人は「危険がない状態」と考えるかもしれない。だが、工学や医療の世界では、安全の定義はもっと現実的で、同時に奥深いものである。
安全の本質的な定義
国際的な安全規格(ISO/IEC Guide 51)では、安全を「受容できないリスクがないこと」と定義している。この定義には重要な前提が含まれている——つまり、リスクの存在を認めているのである。
言い換えれば、世の中に「完全に安全」なものは存在しない。あるのは「受容可能なリスク」と「受容できないリスク」の境界線だけである。この考え方は、日本の厚生労働省や経済産業省、さらには欧州医薬品庁(EMA)なども公式に採用し、啓発している。
なぜ「ゼロリスク」は幻想なのか
簡単な例で考えてみよう。
歩道を歩くという日常的な行為にも、転倒、車の飛び込み、落下物など、様々なリスクが存在する。しかし、私たちはそれらのリスクが「十分に小さい」と判断して、毎日歩いている。もし「ゼロリスク」を追求するなら、家から一歩も出られなくなってしまう。
これは極端な例に思えるかもしれないが、産業界では実際にこの問題に直面している。例えば、ある化学物質の残留基準を「ゼロ」にしようとすると、検査技術の向上とともに「より微量」の検出が可能になり、永遠に基準を満たせなくなってしまうのである。
航空機の安全性から学ぶ
航空機事故を例に、具体的な数字で考えてみよう。
国際航空運送協会(IATA)の統計によると、航空機の重大事故は約1,000万フライトに1〜2件の割合で発生している。これを個人の視点で表現すると、「毎日飛行機に乗り続けても、事故に遭うのは約8,200年に1回」という計算になる。
一方、自動車事故で死亡する確率は、日本では年間約3,000人(人口1億2,000万人として)、つまり4万人に1人である。航空機の方がはるかに安全であることがわかる。
重要なのは、航空業界が「墜落事故をゼロにする」ことを目標にしているわけではないという点である。それは技術的にも経済的にも不可能だからである。代わりに、以下のような多層的な安全対策を講じている。
- 機体の設計:複数の安全システムが同時に故障しても飛行を継続できる冗長設計
- 整備体制:定期的な点検と予防的な部品交換
- パイロット訓練:あらゆる異常事態を想定したシミュレーター訓練
- 管制システム:衝突防止システムや気象監視体制
これらすべてが組み合わさって、リスクを社会が受容できるレベルまで低減している。
医療機器における安全の考え方
医療機器の分野では、ISO 14971という国際規格に基づいて、より体系的なリスクマネジメントが行われている。
例えば、MRI(磁気共鳴画像診断装置)を考えてみよう。MRIには以下のようなリスクが存在する。
- 強力な磁場:ペースメーカーや金属片への影響
- 騒音:聴覚への影響
- 閉所での検査:パニック発作の可能性
- 造影剤:アレルギー反応のリスク
これらのリスクに対して、メーカーと医療機関は次のような段階的アプローチを取る。
ステップ1:リスクの特定と分析
すべての潜在的リスクを洗い出し、その発生確率と重大性を評価する。例えば、「ペースメーカー装着者がMRI室に入る」リスクは、発生すれば致命的だが、適切なスクリーニングで防げる。
ステップ2:リスクの低減
- 設計による対策:緊急停止ボタンの設置、磁場強度の表示
- 保護手段:金属探知機の設置、遮蔽設計
- 情報提供:明確な警告表示、問診票によるスクリーニング
ステップ3:残存リスクの評価
すべての対策を講じても残るリスクが、MRIによる診断の便益(早期発見による治療成績向上など)と比較して受容可能かを判断する。
リスクと便益のバランス:実例で理解する
自動車の例
日本では年間約3,000人が交通事故で亡くなっている。それでも自動車を禁止しないのは、以下の便益があるからである。
- 移動の自由:通勤、通学、買い物
- 経済活動:物流、営業活動
- 緊急時の対応:救急車、消防車
社会はこれらの便益を考慮し、シートベルト義務化、速度制限、飲酒運転の厳罰化などでリスクを低減しながら、自動車の利用を続けている。
ワクチンの例
ワクチンにも副反応のリスクがある。しかし、感染症による重篤な合併症や死亡のリスクと比較すると、ワクチン接種の便益の方がはるかに大きい。これも「ゼロリスク」ではなく「リスクと便益のバランス」で判断される典型例である。
ゼロリスクの追求がもたらす4つの問題
1. コストの際限ない増大
リスクを90%削減するコストを1とすると、99%削減は10倍、99.9%削減は100倍のコストがかかることがある。これを「限界効用逓減の法則」という。
2. イノベーションの停滞
過度に厳しい安全基準は、新しい技術の実用化を妨げる。例えば、自動運転車が「人間の運転より少し安全」では認可されず、「圧倒的に安全」を求められると、技術の恩恵を受けるのが大幅に遅れる。
3. 別のリスクの増大
あるリスクを過度に恐れると、別のリスクが増大することがある。例えば、飛行機を恐れて長距離を車で移動すれば、かえって事故リスクが高まる。
4. 誤った安心感
「絶対安全」と信じ込むと、基本的な注意を怠る。適度な警戒心を保つことが、実際の安全につながる。
私たちができる実践的なアプローチ
1. リスクを「確率」と「影響度」で考える
感情的にならず、以下の2つの軸で冷静に評価する。
- 発生確率:どのくらいの頻度で起こるか
- 影響の大きさ:起きたときの被害はどの程度か
2. 信頼できる情報源を活用する
- 政府機関の統計データ
- 国際機関(WHO、IATAなど)の報告書
- 査読付き学術論文
3. 継続的な改善を支持する
完璧を求めるのではなく、技術の進歩に応じた段階的な改善を評価する。
4. リスクコミュニケーションに参加する
地域の防災訓練、製品の安全情報、医療における説明と同意など、リスクについて対話する機会を大切にする。
結論:動的なプロセスとしての安全
「安全とは受容できないリスクがないこと」——この定義は、私たちに現実的で建設的な視点を提供する。
安全は、一度達成したら終わりという「静的なゴール」ではない。技術の進歩、社会の価値観の変化、新たなリスクの発見に応じて、常に見直され、改善されていく「動的なプロセス」である。
ゼロリスクという幻想を追い求めるのではなく、リスクと便益のバランスを理解し、科学的根拠に基づいて判断し、継続的に改善していく——これこそが、私たちが目指すべき真の安全文化である。
次に飛行機に乗るとき、病院でMRI検査を受けるとき、あるいは新しい技術に触れるとき、「これは絶対安全か?」ではなく、「リスクは適切に管理されているか?」「便益はリスクを上回るか?」と考えてみてほしい。それが、賢明な安全との付き合い方の第一歩となるはずである。
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