
米国の薬価はなぜ高いのか
米国の医薬品価格は世界的に見ても突出して高い。同一の医薬品であっても、他の先進国と比較して2倍から10倍もの価格差があることも珍しくない。例えば、糖尿病治療に欠かせないインスリンは、カナダやヨーロッパ諸国と比較して米国では5倍から10倍の価格で販売されている。この状況は多くの米国民にとって深刻な問題となっており、医療費負担による家計圧迫や、必要な薬を購入できないという事態も生じている。では、なぜ米国の薬価はここまで高騰しているのか。本稿では、その複雑な構造的要因を分析する。
ノボノルディスク社の肥満薬にみる国際的な薬価格差
肥満治療薬市場においても米国と他国の薬価格差は顕著である。デンマークの製薬会社ノボノルディスク社が開発した肥満治療薬「ウェゴビー」(セマグルチド2.4mg)と糖尿病治療薬「オゼンピック」(セマグルチド1.0mg)の国際価格差は、米国の薬価問題を象徴する事例となっている。
米国と他国の価格比較
2024年のデータによれば、米国での「オゼンピック」1ヶ月分の価格は約969ドル(約15万円)であるのに対し、他国では大幅に安く販売されている。
- カナダ:155ドル(米国の約1/6)
- デンマーク:122ドル(米国の約1/8)
- フランス:71ドル(米国の約1/14)
- ドイツ:59ドル(米国の約1/16)
さらに高価な肥満治療薬「ウェゴビー」においても同様の格差が見られる。
- 米国:1,349ドル(約20万円)
- カナダ:265ドル(米国の約1/5)
- デンマーク:186ドル(米国の約1/7)
- ドイツ:137ドル(米国の約1/10)
- 英国:82ドル(米国の約1/16)
こうした価格差は、製薬会社ノボノルディスク社の収益構造にも反映されている。米国上院健康・教育・労働・年金委員会(HELP)の調査によれば、同社のこれら製品からの約500億ドルに及ぶ売上の72%が米国市場から生み出されているという。つまり、世界人口の5%に満たない米国が、これらの薬剤の世界的な利益の大部分を支えている構図が浮かび上がる。
製造コストとの乖離
研究によれば、オゼンピックの実際の製造コストは月あたり5ドル未満とされ、米国での販売価格との著しい乖離が指摘されている。このような高額な価格設定に対し、米国議会では調査が行われ、2025年1月にはメディケア薬価交渉の対象にオゼンピックとウェゴビーが選定された。
こうした状況は、米国の医薬品価格設定システムの問題点を浮き彫りにしており、製薬会社が主張する「研究開発費の回収」という論拠に対する疑問も投げかけている。同時に、肥満症という現代の健康課題に対する有効な治療へのアクセスが、価格によって制限されるという社会的問題を提起している。
1. 政治的要因とロビー活動
製薬業界は米国で最も政治的影響力のある産業の一つである。PhRMA(米国研究製薬工業協会)をはじめとする業界団体は、毎年数億ドルをロビー活動に費やしている。
この政治的影響力は、薬価規制や政府による価格交渉を制限する政策の維持に貢献してきた。例えば、前述のメディケアの「非干渉条項」は、業界の強力なロビー活動の結果として導入・維持されてきたと広く認識されている。
2. 「恐怖の霧」戦略と製薬会社の収益構造
製薬業界では「恐怖の霧」(Fog of Fear)と呼ばれる戦略が存在する。これは、価格規制や透明性向上の取り組みに対して「研究開発投資の減少」「イノベーションの停滞」「新薬アクセスの遅延」などの脅威を強調することで、改革の機運を削ぐ手法である。
実際には、多くのグローバル製薬企業は収益構造において米国市場に大きく依存している。同一の医薬品が他の先進国の2倍から10倍の価格で販売されている米国市場は、世界の製薬企業にとって最大の利益源となっている。世界の医薬品売上のおよそ40〜45%が米国市場から生み出されているとされ、この「米国プレミアム」によって全世界の研究開発活動が支えられているという主張もある。
しかし、実際の企業財務を分析すると、多くの大手製薬会社はマーケティングと株主還元に研究開発以上の資金を費やしており、米国の高薬価が必ずしも純粋な研究開発活動に比例して還元されているわけではないことが指摘されている。
3. 市場原理に基づく価格設定システム
米国の薬価が高い最も基本的な要因は、他の先進国とは異なる価格設定システムにある。多くの先進国では政府が医薬品価格の交渉や規制に積極的に関与しているが、米国では基本的に製薬会社が自由に価格を設定できる。
米国のメディケア(高齢者向け公的医療保険)は、2022年のインフレ抑制法(Inflation Reduction Act)の成立まで、薬価交渉が法的に禁止されていた。この「非干渉条項」(non-interference clause)は「保健福祉省長官は、製薬会社と薬局および処方薬プラン提供者との間の交渉に干渉してはならない」と明確に規定していた。この制度は、以下のような結果をもたらしている。
- 製薬会社が「市場が受け入れる最高価格」を設定できる
- 特許保護期間中は事実上の独占状態となる
- 保険会社や薬局給付管理会社(PBM)との個別交渉による複雑な価格体系が形成される
その結果、同一の医薬品でも国際的な価格差が生じている。例えば、RAND研究所の調査によると、米国のインスリン平均価格は1単位あたり98.70ドルで、カナダ(12.00ドル)、英国(7.52ドル)、フランス(9.08ドル)などの先進国の5〜10倍にのぼる。特に速効型インスリンでは米国の平均価格が119.36ドルであるのに対し、他のOECD諸国では8.19ドルと顕著な差がある。
4. 研究開発コストと特許制度
製薬業界は、新薬開発に莫大な投資が必要な産業である。2009年から2018年の間、米国の製薬会社は新薬1つの市場投入に平均約10億ドルを費やしていたことが研究で確認されている。また、開発に着手した候補化合物のうち、実際に承認される医薬品はわずか数パーセントにすぎない。
米国の特許制度は、このようなリスクの高い投資を促進するため、新薬に対して20年間の特許保護を与えている。しかし、特許申請は通常、臨床試験の初期段階で行われるため、実際に市場での独占期間は約12〜14年程度となる。この期間中、製薬会社は競合なしに価格を設定できるため、研究開発コストの回収と将来の研究資金確保のために高価格を設定する傾向がある。
また、製薬会社は「エバーグリーニング」と呼ばれる戦略を用いて、わずかな改良を加えた医薬品に新たな特許を取得し、独占期間を実質的に延長している実例も確認されている。この戦略により、既存薬に軽微な修正を加えて新たな特許を取得し、20年の保護期間を実質的に延長することが可能となっている。
5. 規制環境と承認プロセス
米国食品医薬品局(FDA)による新薬承認プロセスは厳格であり、安全性と有効性を確保するために詳細な臨床試験データが要求される。この厳格な規制は医薬品の安全性を高める一方で、承認までの時間とコストを増加させる要因ともなっている。
また、ジェネリック医薬品(後発医薬品)の市場参入に関しても様々な障壁が存在する。
- 特許訴訟による参入遅延
- 「ペイ・フォー・ディレイ」(Pay-for-delay)と呼ばれる先発医薬品メーカーとジェネリックメーカー間の和解
- バイオシミラー(バイオ後続品)に関する複雑な承認要件
「ペイ・フォー・ディレイ」の手法では、ブランド薬メーカーがジェネリックメーカーに対して市場参入を遅らせる見返りに金銭を支払う。2005年以来、142のブランド薬がこの手法によって競争を遅らせられたことが報告されている。
これらの要因により、米国では医薬品の独占状態が長期化し、価格競争が制限される傾向にある。バイオ医薬品については、バイオシミラーの承認や市場浸透に関する規制的・実務的障壁がさらに複雑であり、コスト削減の機会が限られている。
6. マーケティングと広告費用
米国は先進国の中で唯一、処方薬の直接消費者広告(Direct-to-Consumer Advertising, DTCA)を広範囲に許可している国である。製薬会社はテレビCMや雑誌広告などを通じて、消費者に直接医薬品のマーケティングを行っている。
2022年の調査によれば、米国の製薬企業はテレビ広告だけに約65億ドルを費やしている。これは決して小さな金額ではなく、最終的には薬価に上乗せされていると考えられる。ただし、グローバルな視点では、製薬業界の研究開発(R&D)投資は2021年に約2,760億ドルに達し、販売・マーケティング費用(約960億ドル)の約3倍となっている。特に米国を拠点とする企業は収益の34%をR&Dに再投資しており、これは欧州企業(22%)やアジア/太平洋企業(20%)よりも高い割合である。
このように、業界全体としてはマーケティング費用がR&D費用を上回るわけではないが、個別企業レベルではマーケティングにより多くの資源を投入しているケースも見られる。いずれにせよ、米国特有の直接消費者広告は薬価を押し上げる一因となっている。
7. 複雑な流通システムと中間業者の存在
米国の医薬品流通システムは極めて複雑であり、多くの中間業者が介在している。特に「薬局給付管理会社」(Pharmacy Benefit Manager, PBM)と呼ばれる組織は、保険会社と薬局の間に立ち、薬価に大きな影響を与えている。
PBMは「支払者」(雇用主、自治体、労働組合、健康保険プランなど)に代わって処方薬請求を処理する管理者として機能し、以下のような役割を担っている。
- 保険会社と製薬会社の間で価格交渉を行う
- 処方薬の給付範囲(フォーミュラリー)を管理する
- リベート(払い戻し金)システムを運用する
問題は、このシステムが極めて不透明であることだ。テキサス州の報告書によれば、16のPBMが製薬会社から支払われたリベートと手数料の29%(2億2,750万ドル)を留保していたことが示されている。このようなリベートの一部しか保険会社や患者に還元されないことで、薬価の透明性が損なわれ、最終的な医薬品コストが上昇する一因となっている。
また、業界では統合が進み、大手PBMと大手保険会社や薬局チェーンの関係が密接になっている状況も報告されている。
8. イノベーションの促進と利益のバランス
米国の現行システムの擁護者は、高い薬価がイノベーションの原動力であると主張する。実際、世界の新薬の多くは米国で開発されており、米国の製薬・バイオ産業は世界をリードしている。
しかし、批判者は高薬価が必ずしもイノベーションに直結しているわけではないと指摘する。多くの画期的な研究は政府資金(国立衛生研究所NIHなど)によって支援されており、製薬会社の研究開発費の相当部分はマーケティングやM&A(合併・買収)に振り向けられているという批判もある。
おわりに
米国の高い薬価は、単一の要因ではなく、市場構造、規制環境、政治的要因など複合的な要素が絡み合った結果である。医薬品へのアクセス確保とイノベーション促進の両立は容易ではないが、システムの透明性向上や政府の適切な関与を通じて、より持続可能な医薬品価格体系を構築することが課題となっている。
グローバル製薬企業の収益構造において米国市場が圧倒的な位置を占める現状は、皮肉にも他国の患者が恩恵を受けている側面もある。日本を含む多くの先進国では政府による価格規制が機能しているが、これが可能な背景には米国市場での高収益が存在するという指摘もある。しかし、この構造的不均衡は長期的には持続困難であり、より公平な研究開発コスト分担の仕組みが国際的に模索されるべきだろう。
米国と他の先進国の経験から学ぶことで、医薬品の研究開発を促進しつつ、患者の経済的負担を軽減するバランスの取れたアプローチを模索していくことが重要である。「恐怖の霧」を超えて、エビデンスに基づいた冷静な議論と政策形成が求められている。
