
査察に備える企業の準備戦略
2025年、企業を取り巻く規制環境はますます複雑化し、各種査察への対応力が企業の信頼性を左右する重要な要素となっている。製薬業界では製薬協コード・オブ・プラクティスが2025年10月から改定適用され、EUでは人権・環境デューディリジェンス指令(CSDDD)が段階的に適用開始されている。さらに、FDAは2025年5月に海外製造施設への抜き打ち検査拡大を正式発表するなど、査察環境は大きく変化している。
多くの規制当局査察では事前通知があるものの、特定の条件下では無通告査察も実施される。いずれの場合も、「準備なき対応」と「準備ある対応」では、その結果に天と地ほどの差が生まれる。本稿では、査察を「乗り越えるべき試練」から「企業力を示す機会」へと転換するための実践的な準備戦略について解説する。
模擬査察の重要性:本番を想定した実践的訓練
なぜ模擬査察が必要なのか
実際の査察は、企業にとって非日常的な出来事である。通常のFDA査察では2〜4ヶ月前に事前通知があるものの、準備期間があっても実際の査察時は独特の緊張感に包まれる。また、特定の条件下では無通告査察が実施される場合もあり、2025年からFDAは海外製造施設への無通告査察を拡大している。普段は経験することのない緊張感の中で、査察官からの質問に的確に答え、必要な文書を迅速に提示しなければならない。この「非日常」を「想定内」に変えるのが模擬査察の最大の価値である。
模擬査察とは、実際の査察を想定して社内で行う予行演習である。外部の専門家を査察官役として招き、本番さながらの環境で実施することで、以下のような効果が期待できる。
- 現状把握と課題の可視化
模擬査察を通じて、現在の準備状況における弱点が明確になる。例えば、重要文書の所在が不明確である、担当者間の連携が不十分である、といった課題が浮き彫りになることが多い。 - 対応手順の確立と最適化
査察当日の動きをシミュレーションすることで、誰が何をすべきかという役割分担が明確になる。また、査察官の案内ルートや、文書提示の手順なども事前に最適化できる。
効果的な模擬査察の実施方法
段階的アプローチの採用
初回から完璧を求めるのではなく、段階的に難易度を上げていくことが重要である。
- 第1段階:部門内での簡易的な確認演習
- 第2段階:複数部門を巻き込んだ連携訓練
- 第3段階:外部専門家による本格的な模擬査察
リアリティの追求
模擬査察の効果を最大化するためには、できる限り実際の査察に近い環境を作ることが重要である。査察官役には、実際の査察経験を持つコンサルタントや、業界に精通した専門家を起用することが望ましい。
フィードバックと改善サイクル
模擬査察後は必ず振り返りの時間を設け、発見された課題に対する改善策を検討する。そして、次回の模擬査察でその改善効果を検証するという、PDCAサイクルを回すことが重要である。
文書管理と情報整理:査察対応の基盤構築
体系的な文書管理システムの構築
査察において最も時間を要するのが、要求された文書の提示である。日頃から体系的な文書管理を行っていれば、査察官の要求に対して迅速かつ的確に対応できる。
文書の分類と整理
査察で求められる文書は多岐にわたるが、大きく以下のカテゴリーに分類できる。
- 基本文書群:定款、登記簿謄本、組織図など
- 業務記録群:製造記録、品質管理記録、取引記録など
- 管理文書群:規程類、手順書、マニュアルなど
- 証跡文書群:会議議事録、承認記録、研修記録など
これらの文書を論理的に分類し、誰でもアクセスできる状態に整理することが基本となる。
デジタル化とアクセシビリティの向上
近年の査察では、大量の文書を短時間で確認することが求められる。紙ベースの管理では限界があるため、計画的なデジタル化が不可欠である。
デジタル化のメリットは単なる検索性の向上だけではない。バージョン管理が容易になり、常に最新の文書を提示できる。また、アクセス履歴が記録されるため、情報セキュリティの観点からも優れている。
情報の一元管理と更新体制
マスターデータの整備
査察では、一貫性のある情報提供が求められる。部門によって異なる数値を提示したり、古い情報を提供したりすることは、企業の信頼性を大きく損なう。そのため、全社で参照すべきマスターデータを定義し、一元管理することが重要である。
定期的な更新とレビュー
文書や情報は、作成して終わりではない。法規制の改正、組織変更、業務プロセスの変更など、様々な要因により更新が必要となる。最低でも年に2回は全文書のレビューを行い、最新性を確保すべきである。
緊急時対応マニュアルの整備
査察の種類によって事前通知の有無は異なる。通常の規制当局査察は事前通知があるが、税務調査や特定の条件下での査察は予告なく実施されることもある。そのような場合に備え、「査察対応緊急マニュアル」を整備し、以下の手順を明文化しておく必要がある。
- 査察官の身分確認と査察目的の確認
- 専門家(顧問弁護士、税理士等)への即時連絡
- 対応責任者への迅速な報告と招集
- 冷静かつ協力的な初動対応
- 文書提出までの標準手順
特に無通告査察の場合は、動揺せず冷静に対応することが重要である。
従業員教育と対応力強化:人的基盤の確立
全社的な意識改革
査察対応は、一部の担当者だけの問題ではない。査察官は様々な部門を訪問し、現場の従業員にも質問を投げかける。そのため、全従業員が査察の意義を理解し、適切に対応できる能力を身につける必要がある。
査察の目的と意義の共有
多くの従業員は、査察を「面倒な監査」として捉えがちである。しかし、査察は企業の健全性を証明し、ステークホルダーからの信頼を獲得する重要な機会である。この認識を全社で共有することが、積極的な協力を得る第一歩となる。
コンプライアンス文化の醸成
日常業務において法令遵守が当たり前となる文化を作ることが、最良の査察対策である。定期的なコンプライアンス研修や、身近な事例を用いたケーススタディを通じて、従業員一人ひとりの意識を高めていく。
実践的な対応スキルの習得
コミュニケーション研修の実施
査察官との対話では、正確性と簡潔性が求められる。聞かれたことに対して的確に答え、余計な情報は提供しない。このようなコミュニケーションスキルは、練習なしには身につかない。
ロールプレイング形式の研修を定期的に実施し、以下のポイントを習得させる。
- 質問の意図を正確に理解する傾聴力
- 事実と意見を区別して説明する能力
- 「わからない」ことを適切に伝える勇気
- 緊張下でも冷静に対応する精神力
専門知識の継続的アップデート
規制要件は頻繁に変更される。担当者は最新の規制動向を常に把握し、自社の対応状況を確認する必要がある。外部セミナーへの参加、業界団体との情報交換、専門誌の定期購読などを通じて、知識を継続的にアップデートする体制を構築する。
チーム対応力の向上
クロスファンクショナルチームの編成
査察対応は部門横断的な取り組みである。品質保証、製造、営業、管理部門など、各部門の代表者で構成される査察対応チームを編成し、定期的に情報共有と対策検討を行う。
役割分担の明確化
査察当日は、限られた時間の中で多くのタスクをこなす必要がある。誰が査察官を案内するのか、誰が文書を準備するのか、誰が質問に答えるのか、といった役割分担を事前に明確にしておく。また、キーパーソンが不在の場合の代理者も決めておく必要がある。
定期的な訓練と振り返り
チームとしての対応力は、個人のスキルの総和以上のものである。定期的な合同訓練を通じて、チームワークを醸成し、改善点を共有することで、組織全体の対応力を向上させる。
査察を成長の機会として捉える
継続的改善への活用
査察で指摘された事項は、企業にとって貴重な改善機会である。指摘事項を単に「修正すべき問題」として捉えるのではなく、「成長のためのヒント」として積極的に活用することが重要である。
指摘事項の体系的分析
指摘事項を個別に対応するだけでなく、根本原因を分析し、システム全体の改善につなげる。例えば、文書の不備が指摘された場合、その文書だけを修正するのではなく、文書管理システム全体を見直す機会とする。
ベストプラクティスの水平展開
査察で高く評価された取り組みは、社内のベストプラクティスとして他部門にも展開する。これにより、組織全体のレベルアップを図ることができる。
次なる査察への準備
査察記録の蓄積と活用
過去の査察記録は、次回の査察準備において貴重な参考資料となる。査察官の関心事項、重点確認ポイント、指摘傾向などを分析し、次回の準備に活かす。特に2025年以降のFDA査察では、データインテグリティやサプライチェーン管理への関心が高まっており、これらの領域への重点的な準備が必要である。
定期的な準備状況レビュー
通常の査察は事前通知があるとはいえ、無通告査察の可能性も考慮し、常に一定レベルの準備状態を維持することが重要である。四半期ごとに準備状況をレビューし、必要に応じて改善策を講じる。年に最低2回は全文書の見直しを行い、最新の規制要件への適合性を確認する。
まとめ
査察に備える企業の準備戦略は、模擬査察による実践的訓練、体系的な文書管理と情報整理、そして従業員教育による対応力強化の三本柱で構成される。これらは独立した取り組みではなく、相互に連携し、補完し合うことで初めて真の査察対応力となる。
重要なのは、査察を「通過すべき試験」としてではなく、「企業力を証明する機会」として捉えることである。日頃からの地道な準備と継続的な改善により、査察は企業の信頼性を高め、競争優位性を確立する重要な機会となる。
査察への準備は、決して無駄な投資ではない。それは企業の体質強化につながり、持続的な成長の基盤となる。今こそ、査察を恐れるのではなく、積極的に活用する姿勢で、準備戦略を実行に移す時である。

