なりすましはなぜ発見できないのか

2025年現在、企業や組織におけるデジタル化は当たり前のものとなった。紙の書類は電子ファイルに、押印はデジタル署名に置き換わり、業務効率は飛躍的に向上した。しかし、この利便性の裏側には、アナログ時代には存在しなかった深刻なセキュリティリスクが潜んでいる。それが「なりすまし」の問題である。

アナログ記録の持つ「個人性」

筆跡という有力な証拠

紙の時代、文書の真正性を確認する有力な手段は「筆跡」であった。人間の筆跡には個人固有の特徴があり、これを完全に模倣することは容易ではない。
例えば、重要な契約書に署名する場面を想像してほしい。署名された文書には、その人固有の筆圧の強弱、文字の傾き、ペンの運び方といった特徴が記録される。専門家が筆跡鑑定を行えば、それが本人の署名か、第三者による偽造かを一定の精度で判別できる。
ただし、筆跡鑑定にも限界がある。最高裁判例(昭和40年2月21日)では、「伝統的筆跡鑑定方法は多分に鑑定人の経験と感に頼るところがあり、証明力には限界がある」と指摘されている。特に、トレーシングペーパーを用いた巧妙な模倣については、識別精度が大きく低下することも研究により明らかになっている。
それでも、デジタル記録と比較すれば、筆跡は作成者の個性を反映する物理的痕跡として、はるかに多くの情報を提供するものである。

物理的な痕跡が語る真実

筆跡以外にも、アナログ記録には多くの物理的痕跡が残る。

  • 紙の質感や経年劣化
  • インクの種類や染み込み方
  • 修正液や消しゴムの使用痕
  • 折り目や汚れなどの使用履歴

これらの痕跡は、文書がいつ、どのような環境で作成されたかを物語る証拠となり、改ざんや偽造を発見する手がかりとなる。

デジタル記録の本質的な課題

「完全な複製」という特性

デジタルデータの最大の特徴は、「完全な複製が可能」という点である。この特性は業務効率化においては大きな利点だが、セキュリティの観点からは致命的な弱点となる。
ワープロソフトで作成された文書を考えてみよう。Aさんが作成した文書ファイルと、Bさんが同じ内容を入力した文書ファイルは、技術的には完全に同一のデータである。フォント、文字サイズ、段落設定が同じであれば、両者を区別する方法は原理的に存在しない。

筆跡の不在がもたらす深刻な問題

デジタル記録には、アナログ記録が持っていた「個人性」が根本的に欠如している。

  • キーボード入力の均一性
    どれほどタイピングのクセがあったとしても、最終的に生成されるデジタルテキストは完全に均一である。入力者の個性を反映する要素は一切残らない。
  • 作成者情報の脆弱性
    ファイルのプロパティには「作成者」や「最終更新者」といった情報が記録される。しかし、これらのメタデータは簡単に書き換えることができる。例えば、他人のアカウントでログインして文書を作成すれば、その人が作成したように見せかけることが可能である。
  • 時刻情報の信頼性の限界
    ファイルのタイムスタンプ(作成日時、更新日時)も、システムの時計設定を変更することで改ざんできる。つまり、「この文書は昨日作成された」という記録さえも、絶対的な証拠とはならない。

実例:なりすましが発見されなかったケース

ケース1:承認済み文書の差し替え

ある企業で、上司が承認した稟議書が、承認後に内容を書き換えられる事件が発生した。犯人は上司のパソコンに一時的にアクセスし、承認済みファイルを開いて金額を変更し、上書き保存した。
ファイルの作成者情報は上司のままであり、最終更新日時も承認日と同じであった(システムの時計を調整していた)。紙の稟議書であれば、修正液の痕跡や筆跡の違いから改ざんが発見できたはずだが、デジタル記録では何の痕跡も残らなかった。

ケース2:メールの送信者偽装

社内システムの脆弱性を突いて、経営者を装ったメールが財務部門に送信された。メールの送信元アドレスは正規のものであり、文面も本人の文体を巧みに模倣していた。
受信者には、このメールが本当に経営者本人から送信されたものか、第三者による偽装かを判断する手段がなかった。紙の書類であれば筆跡で判別できたであろうが、デジタルテキストからは送信者の真偽を見抜くことができない。

なりすまし発見が困難な根本的理由

  1. デジタルデータの「無個性」

    デジタル記録には、作成者の個性を示す物理的・生物学的な痕跡が一切存在しない。同じ内容を入力すれば、誰が入力しても同一のデータとなる。この「完全な均一性」こそが、なりすまし発見を困難にする最大の要因である。
  2. 「入力行為」と「データ」の分離

    アナログ記録では、書く行為と記録が不可分である。筆跡という形で、行為の痕跡が記録に刻まれる。
    しかし、デジタル記録では、入力行為と生成されるデータが完全に分離している。キーボードをどのように叩こうと、最終的なデータには何の影響も与えない。つまり、「誰が入力したか」という情報は、原理的にデータに含まれないのである。
  3. 認証システムの限界

    現在の認証システムは、「アカウント=本人」という前提で設計されている。パスワードやICカードなど、認証情報を持っている者を「本人」と見なす。
    しかし、これらの認証情報は盗まれたり、貸与されたりする可能性がある。システムは「認証情報を持つ者」を本人として扱うため、実際に操作している人物が本人かどうかを判断する手段を持たない。

今後の展望と必要な対策

多要素認証の重要性

パスワードだけでなく、生体認証(指紋、顔認証)や物理トークンを組み合わせることで、なりすましのリスクを低減できる。ただし、これも完全な解決策ではなく、利便性とのトレードオフが課題となる。

行動分析技術の発展

キーボードのタイピングパターンや、マウスの動かし方など、個人の行動特性を分析する技術が研究されている。これらは「デジタル筆跡」とも呼ばれ、将来的にはなりすまし検出に活用される可能性がある。
しかし、現時点では精度や実用性に課題があり、広く普及するには時間がかかると予想される。

ゼロトラストセキュリティの採用

「信頼しない、常に検証する」という原則に基づき、すべてのアクセスを継続的に監視・検証するアプローチが注目されている。単一の認証だけでなく、アクセスの都度、複数の要素で本人性を確認することで、なりすましのリスクを軽減する。

まとめ

電子記録における「なりすまし」が発見困難な理由は、デジタルデータが持つ本質的な特性に起因している。筆跡という個人固有の痕跡が存在しないため、一度作成された記録から実際の入力者を特定することは、技術的に極めて困難である。
デジタル署名やログ記録といった対策技術は存在するが、それらにも限界があり、運用の複雑さや認証情報の管理という新たな課題を生み出している。
重要なのは、この問題を技術的な対策だけで解決しようとするのではなく、組織的な統制、教育、そして適切なリスク管理を組み合わせた総合的なアプローチである。デジタル化の利便性を享受しながらも、その裏側に潜むリスクを正しく理解し、人間とシステムが協力して安全性を確保していく体制を構築することが、これからの時代に求められている。

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